出口保夫(著)『ロンドン塔』(中公新書、1993年)

出口保夫(著)『ロンドン塔』(中公新書、1993年)


一歩とたまにか関係のない本を・・・。
ウィリアム王子も結婚しましたしね。久しぶりにイギリスに注目が。。
そんなときこそ、イギリスの話を!

で、選んだのがロンドン塔って。。。。林望先生のご著書とか、いろいろあったろう、自分!何もゴールデンウィークにこんな暗い話。。
それがこのブログテイストな気がしてきた、そんな残念なお知らせ。。。


けっこうマニアックな本ですが。。
かつて学生だった頃、わたしイギリスが大好きで。いまも好きなんですが。
特にロンドン。なぜかこの都市に異常な憧れがありまして。ビートルズが好きだったというのもありますが、ブリティッシュロックが好きで。
大学でも英語はわざわざイギリス史とって。イギリス発音を会得しようとして挫折・・・!けれどもいまだにアメリカ英語に慣れず、結局英語コンプレックスを助長するだけだったという・・・。
それはおいといて、とにかく、ロンドンへ行って、ロンドン塔にまでわざわざ足を運ぶひとっていますか・・・ね?
どうでしょう。わたしは行きました。ロンドン大好きだったので。
あらゆる名所を2週間くらいかけて回りました。貧乏学生旅行で、外食はほとんど自炊!
イギリス、物価高ですからね。。そのかわり美術館や博物館が無料(募金箱はあります)なので、観まくりましたけれど。
地下鉄もものすごい高くて。今はオイスターカードというスイカみたいなカードがあって、それですこし割安になるようですが。
今はすこし円高になって、だいぶ違うんでしょうけれど、わたしが行ったころは、1ポンド220円くらいでしたかね。

まあ・・ロンドン塔。いちばん有名なイメージは、ビーフ・イーターですかね。
派手な服装の衛士のことです。一説には給料が牛肉だったことから、そう呼ばれるようですが。
あの、ジンを飲むかたならご存知でしょう。この名前のジンがあります。
そこに描かれているのが衛士です。
このひとたちが大きい声で口上したり、儀式を執りおこなったりします。
バッキンガム宮殿での衛兵の儀式も有名ですが、こちらも伝統行事だそうで。わたしは残念ながら観ていませんが。



ここでは、ロンドン塔の歴史をローマ時代にさかのぼり、歴史がひもとかれていきます。副題が光と影の900年ですからね。。長い。
塔といっても、東京タワーみたいなのがでんと立っているわけではなく、いくつかの塔からなっています。
ウェイクフィールド・タワー、ブラッディ・タワー、ホワイト・タワー、ビーチャム・タワー、タワー・グリーン。それとバイワード・タワーとミドル・タワー。。とりこぼしがあったらすみません。。と、後ろに地図が載っていました・・・え、23??そんなにあるの??
ホワイト・タワーの中にはチャペルもありますし、要塞、日本でいう天守閣、みたいなものを想像すればいいでしょうか。
宝物庫もありますしね。

さて、どうしてローマ時代にまで歴史がさかのぼれるのかというと・・・ローマ人が要塞をここに作ったんですね。
ローマの提督クラシシアヌスという人がロンドン都市整備を行ったのだとか。紀元80から100年の間の話。


1078年、ウィリアム征服王が、ホワイト・タワーを建設したのがはじまり。そして13世紀ヘンリー3世の時代まで増築を重ね、いまのかたちになったのだとか。
なかでも壮麗なセント・ジョンズ礼拝堂(ホワイト・タワー内)は、ヘンリー3世の時代に建設されたそうです。
王はそこに住み、塔というよりは、もう城、王宮となっていたってことですね。

まあ、そんな中で、いろいろとイギリスらしい血なまぐさい事件も起きたりしましてね。。
有名なものを二つあげましょうか。もちろん本の中でも紹介されてます。
ひとつは、ふたりの王子の話。
エドワード王と弟のヨーク公。ふたりよりそうような姿の絵もありますよね。

ポール・ドラローシュ《塔のふたりの王子》(1831年、所蔵先はルーヴル美術館ですが、ヴァージョン違いがウォレスコレクションにも)が有名です。
題名は、ロンドン塔のエドワード王とヨーク公たちなど、いろいろ訳されていますが、ここではこちらの本の表記にならって。
絵をぐぐっていただければわかりますが・・・・かわいい!!2人!!
この2人、継承問題でロンドン塔にいれられてしまうのですが、姿を忽然と消してしまします。
後に遺骨が発見され、おそらく絞殺されたのではないかとされていますが。191年後ですよ、発見されたのは。。
ああなんという悲劇。こんなかわいい2人が殺されるなんて。
もうイギリス人が胸を痛ませるストーリーすぎて。
これはね・・・漫画にしたらいいと思うんです。もしすでになっていたらすみません。調べてみます(調べておけというツッコミ覚悟)。


もうひとつは、ジェーン・グレイの処刑。

誰それ?という方のため(わたしです)wikiってきました。


ジェーンの血統に着目したウォリック伯(のちのノーサンバランド公 ジョン・ダドリー)は、政敵サマセット公エドワード・シーモアエドワード6世の母方の伯父)に反逆の汚名を着せ処刑した後、自分の息子ギルフォード・ダドリーとジェーンを結婚させた。そうして、王位継承のライバルとなるヘンリー8世の子メアリーがカトリックであることを利用し、熱烈なプロテスタントエドワード6世を説き伏せ、病床の王からジェーン・グレイへの王位継承を指示する勅令を得た。ノーサンバランド公の最終目的は、ジェーンとギルフォードの息子(つまりノーサンバランド公の孫)を王位につけることにあったという。エドワード6世崩御すると、ノーサンバランド公はジェーンの即位を宣言したものの、陰謀を察知したメアリーが逃亡し、身柄を拘束できなかった。そのためメアリー派の反攻を許すこととなり、1553年7月19日にサフォークでメアリーが即位を宣言、ジェーンと夫ギルフォードらが逮捕された。続けてギルフォードの兄弟、ジョン、アンブローズ、ロバート(のちにエリザベス1世の寵臣となる)、ヘンリーらダドリー一族も逮捕された。その後、ジェーン・グレイはロンドン塔幽閉を経て、1554年2月12日、夫ギルフォードとともに斬首された。王位に就いたメアリーは当初、ジェーンの処刑に躊躇したといわれるが、スペイン王カルロス1世と王太子フェリペの婚約解消の脅しに屈し、処刑の命令を下したという。なおこの1554年2月というのは、ジェーンを王位に即けることを要求したワイアットの乱の起きた月でもあり、その影響もあったと考えられる。処刑後、遺体は夫ギルフォードと共に聖ピーター教会に葬られた。

wikipedia,「ジェーン・グレイ」より転載)


要は、これも王位継承と宗教(カトリックプロテスタント)をめぐって殺されちゃった女王なんです。このひとを王位についたと認めない研究者もいるそうですが。。。
有名な絵がありまして。こちらもドラローシュの絵です。
《ジェーン・グレイの処刑》(1833年、ナショナル・ギャラリ、ロンドン)
たいそうきれいな絵ですけれどね。


イギリスの歴史で引き合いにだされるのは、ヘンリー8世とアン・ブーリン、そしてジェーン・グレイじゃないですかね。。
なかなか血なまぐさい話です。

さて、最近塔に幽閉されたひとはいるのかというと・・・・いますね。ナチスの副総統ルドルフ・ヘスが1941年に捕虜として塔に幽閉されたそうです。
終戦までの5年間、この塔に閉じ込められていたのだとか。

まあ、そんな感じでいつものように中途半端なレビューですが。。


というわけでまた明日!